節目とは不思議なもので、それまでその中をさまよい、模索していた霧が、節目にさしかかると
急に晴れてきて、課題が目に見えてくるものだ。
青い窓四〇〇号の時もそうだった。模索のはてに見えてきたものは「子どもは土を見る 大人は土地を見る」
という示唆に富む課題であった。
この課題をもたらした背後には次のような数々の詩が潜んでいる。
土の中
小学二年 三坂 美子
みみずのす
せみのようちゅうのす
かぶと虫のようちゅうのす
ありのす
もぐらのいえ
土の中は
まるで 大きなアパートのようだ
ここには土によって育まれている動物たちが丹念に数えあげられ、しかも、自ら住み分けている様子まで
感じとることができる。
また、沖縄ではこんな詩も生まれている。
種子
小学六年 比嘉 洋介
ここはどこだろう
そうだ土の中だ
あーあよくねたなあ
むずむずむずむず
体をゆすってもうすぐ
地上に顔を出すよ
みみずのおじさんは
地上は雨がふり
風がふき日照りが続くから
あぶないというけれど
むずむずむずむず
体を動かしてもうすぐ
地上に顔を出すよ
(「おきなわ青い窓」より)
ここでは土の中で営まれている動物と植物の互助関係が擬人化によって描かれ、いかにも「母なる大地」
といったイメージにあふれている。
しかし、次のような詩もまた書かれているのだ。
野原
小学五年 花村 信子
あの小さな野原に
じゅうたんのようにさいていた
タンポポ
よくきこえたなあ
虫たちのゆかいな合唱が……
小鳥たちのさえずりが……
夏になると
虫にさされたパンパンの足で
よくかけ回ったあの野原
でも もうだめ
大きなマンションが
たってしまったんだもん
虫や草花も
顔をださなくなってしまった
タンポポも見られないだろう
虫の鳴き声もきかれないだろう
コンクリートの地面なんて
だいっきらい
あの じゅうたんのようなタンポポを
かえしてほしい
あの思い出いっぱいの
野原にもどしてほしい
ここには土を失った子供の嘆きが綿々とつづられている。じゅうたんのように密生したタンポポ、
鳥の声、虫の声、たとえそれが刺す虫であっても、小さな野原は子どもにとって換えることが
できない楽園なのだ。しかし、大人の目には、まだ整地の済んでいない荒地でしかないのである。
生命を育む土ではなく、資産の一形態としての土地なのだ。したがって子どもは地中に生命の
アパートを見、大人は地上に効率の良いマンションを見るのである。
私は先に「示唆に富む課題」と書いたが、この二つの視点間には多様な問題が隠れている。
「自然から学ぶ知と、自然を変える知」、
「地球環境の破壊」、「幸福と便利」、「教育とは…」、
「バランスとは…」
このように見てくると、この視点の相違は大人の秩序へ向けた、子どもからの信号ではないのだろうか。
(平成四年 青い窓四月号に掲載)
*********************************************************
「土の中」が青い窓誌に掲載されたのは平成元年のこと。当時はバブル経済で
浮足立っていた時代。しかしその後にバブルが崩壊、景気の混乱と後退を
招いてしまいます。
佐藤は「子どもは土を見る、大人は土地を見る」という言葉をもっと世論に
訴えていれば、おかしなことにはならなかったのでは、と語っていました。
子どもは命や自然に対し、同じ仲間としてのまなざしを持って生きています。
そこから生まれる直観や言葉には、地球市民としてよりよく生きるための
ヒントが潜んでいるのです。
(解説・青い窓事務局)